都市と技術とまちへの愛着

皆さんは、自分の住んでいる街が好きでしょうか。私は、人が自分の住む街を好きだということは、その人の生活や人生においてとても重要だと考えています。嫌いな街に住み続けることは、苦手な食べ物を毎食食べ続けるようなものです。

日常会話でも、場所が話題に上ることがあると思います。今住んでいる地域、職場、出身地などについてです。私も、「今Aという地域に住んでいる」と言うと、「Aってどう?」と聞かれたり、シカゴに来てから「東京から来た」と言うと、「シカゴどう(How do you find Chicago)?」と必ず聞き返されます。そのような会話からも、人が街をどう思うか(好きか嫌いか)って何気なく言っていますが、実はとても重要なことなのではないか、と感じています。

ただ、これは何も新しいことを言っている訳ではなく、都市計画において「住民に好かれる街をつくる」というのは多くの自治体でも目指していることだと思います。現に、全国の都市計画マスタープランを拝見すると、例えば長野市では「『誇り』と『愛着』のもてる暮らしやすい都市」、白石市では「誇りをもてるまちづくり」が理念として掲げられています。しかし、好みや誇りに思うものというのは個々人によって異なります。商店街で人と触れ合うことが好きな人がいる一方、近くに大学があることを誇りに思う人もいるでしょう。十人十色でかつ抽象的であるからこそ、誇りや愛着は理念として掲げられても、具体的な計画で使われることはほとんどありません。

政策や計画で実現しづらいからと言って、全く無視して良い訳ではありません。しかし、過去の事例を振り返っても、「住民に好かれない」街や地域が存在することは事実です。アメリカの例になりますが、自動車社会全盛の1950-60年代、アメリカではUrban renewalという都市の再開発が盛んに行われました。有名な事例としてしばしば取り上げられるのはPruitt Igoeという団地です。失敗の要因は様々考えられますが、1点は、モータリゼーションを背景に、巨額の投資が高速道路建設など自動車にかかる事業に向けられ、自動車を中心に据えた都市計画となっていたこと、もう1点は、住宅建設において徹底的に効率性を求め、コストカットをしていった結果、街づくりにおいて重要な「住民に好かれる」という視点を欠いたことです。日本の郊外におけるロードサイドショップの課題と同じ背景といえるでしょう。

さて、近年ビッグデータ人工知能の活用など、新しい技術の利用が注目されており、都市計画も例外ではありません。私がシカゴに移住してきた理由の1つは、テクノロジーやデータを活用した都市計画(いわゆる「スマートシティ」)の先進都市であることです。しかし、どんなに先進的な技術を使っても、その目的が効率化や経済性に偏り過ぎると、「住民が誇りと愛着を持つ街をつくる」という都市計画の大義ともいえる点から乖離してしまうと思います。モータリゼーションという大きな技術が到来した際のかつての過ちを繰り返さないために何が必要か、考えていこうと思います。